リア充のお兄ちゃん達は僕らの秘密基地(ヲタコミュニティ)から出ていってよ!(`・ω・´)

ふと今のどこもかしこも従来のオタクだと思えない、明らかインターネットのオタククラスタに何故かリア充のお兄ちゃん達が混在している摩訶不思議な現状を鑑みてリア充のお兄ちゃん達は僕らの秘密基地(ヲタコミュニティ)から出ていってよ!(`・ω・´)と言いたくなっただけで、しかし言ったとしても「(゚)(゚)ミ リア充のお兄ちゃんもヲタクに目覚めただけやで」って返されそうなような気がします。


まぁ実際問題「出て行ってよ!」って言っても通じるわけでもありませんし、そもそも今のところ上手い事作品毎やコミュニティ毎に住み分けできていて、生粋の非リア充系オタクと、リア充系のライトオタクがぶつかり合う可能性が殆ど無いし、後で挙げる問題さえ解決すれば別に現状維持でも構わないのではないかな? と思ったりしています。というかこのエントリ名や「出て行ってよ!」って言葉自体がとっかかりを持ってもらいたい為の釣りだったりするんだ、やぁ、ようこそバーボンハウ(略


しかし何故にこんな事を思ったのかといいますと、STRANGERさんのこのエントリについて、少なからず私も同様のことを考えていたからです。

また、そういう流れの中にいる人達っていうのは、そういう自分たちの態度を露悪的に表現をしているきらいもあるんですよね。「覇権」とか「オワコン」なんて言葉がネット発信で出てくるのもそういうことなんでしょう。「流行りものを次々に消費していって、次のトレンドが来たら直ぐにそれに飛びつく」っていう態度を、スタイルの一つとして楽しんでいるような印象があります。それっていうのは、アニメ作品の良し悪しとかは別の部分…ネット上でのコミュニケーションの一つなんだろうけど、そういう輪の外にいる人間からすると、それってやっぱり見てて辛い部分ではある。その"辛さ"っていうのは、寂しさ、怒り、劣等感、疎外感…そういう色んなものがごちゃ混ぜになった複雑な感情です。


ネット上でのアニメ作品のトレンドに追いつけなくてシンドイ…という話 - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス
http://d.hatena.ne.jp/tunderealrovski/20120124/p1

このエントリでは詳しいことは今は控えますが私的感覚からみれば「覇権」という考え方自体そんなに露悪的な考え方では無いのでは? とも思っています。


理由を簡単に説明すると、この「覇権」という言葉はかなり面白く、この言葉の働きは(単純に意識的にも無意識的にも)「覇権」と「オワコン」みたいな振り分けることで「見る作品を絞り出している」のではないでしょうか? コミュニケーションとしてアニメを消費する場合、作品数が多い関係で話題も分散されたり、視聴しなければならない作品数も多かったりで効率が悪い。だから「覇権」という言葉を使って作品をふるいにかけて、彼らがコミュニケーションを成立させる為に効率の良い作品選びを自動的に行う……そういう効果が「覇権」という言葉にあるのではないでしょうか?


しかしここで問題があって、この「覇権」という言葉には不思議な魔力があり、こいう弱小ブログにでも「覇権」作品を批判的に取り上げた場合にのみ炎上するケースがここ数年増えてるような気がします……いや、私のブログの場合は私の勉強不足が原因になってはいますが……しかし覇権覇権もりあがると、そこから批判的な意見が言いづらくなり、仕舞いにはあまりに盛り上がりすぎて小さなブログですら、批判的な意見を書くとそこが弾薬庫になる。この負のスパイラル現象は本当に止めて頂きたいです。



個人的にはこの負のスパイラルが解消されれば、別に「リア充のお兄ちゃん達は僕らの秘密基地から出ていってよ!(`・ω・´)」という排他的な言葉を使う理由がなくなります。自分ながら何という自分勝手な理由!! 何という自分本位!! 「これだから××は……」という批判はコメント項やブコメでどしどし行って頂くとしまして……しかしどうしてでしょう、何故こんなアニメ視聴者にリア充が跋扈する状況になってしまったのでしょう……?


何故ヲタメディア&コミュニティにリア充のお兄ちゃんが増えたのか? 単純に考えれば「深夜アニメというメディア自体が、何処かの段階でキャズムを越えた」という表現が一番正しいのかもしれません。恐らくは京アニ作品群でいう「ハルヒからけいおんまでの間」という非常にザックリした期間で、十代の若い子の間で爆発的にアニメが流行したと考えていいと思うのです。kaienさんのエントリからそれらについて述べられている箇所があるので、引用してみます。

 本来、オタクとは、世間の流行とは少し離れたところで自分の趣味を追求している人間だったはずだ。オタク文化自体が世間の流行りとはべつのところにある文化であり、オタクを選ぶことは傍流であることを選ぶことにほかならなかった。
 
 ところが、その後、オタク文化はより巨大になり、より洗練された。そして、オタク文化がより一般的になり、オタクを名乗ることに対する抵抗感が薄れた結果、オタクを名乗りながらも実態としては「みんなと同じ」ではないと気が済まない人間が増えてきたのだろうと推測する。
 
 「みんなと同じ」であることが「勝ち」であり、「だれも見ていないアニメをひとりで見ている」ことが「負け」であると考えるような価値観、それはまさに一昔前の「普通の人」そのものだ。
 
 オタクはいま、「普通の人」に侵食されつつある。しかし、皮肉なことに、より広い視点で見れば、その「普通の人」は過去の概念になりつつある。もはや「みんなが見ているテレビ番組」だの、「みんなが聴いているポップミュージック」だのは存在しない。「普通の人」はもはや必ずしも「普通」ではないのである。
 
 そういう「(かつての)普通の人」的価値観でいえば、映画『けいおん!』は勝ったのかもしれない。が、ぼくにはそんなことはどうでもいい。


映画『けいおん!』は勝ったのか? - Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20120127/p1


うん、前々から思ってたんですが、何故に彼らリア充のお兄ちゃん達は「みんなと同じ」であることが「勝ち」であり、「だれも見ていないアニメをひとりで見ている」ことが「負け」であるとみなして、あまつさえ「勝ち」陣営が「負け」陣営を貶めたり辱めたりするような行為を取るんだろう……? ここが一番不思議。「みんなと同じ」とか絶対にありえないのに、良く分からない……ひょっとしてこの一連の流れ自体が「社会の縮図」となってしまってるのだろうか……? とよく分からない結びの言葉でこのエントリを〆させて頂きます。



今回のエントリと関係ありそうな過去エントリ:

Re:アニメに「現実主義」は不要である
http://d.hatena.ne.jp/str017/20111023/p1
ピングドラムにおける無意味さを表す三つの要素、及び残念な理由について
http://d.hatena.ne.jp/str017/20111020/p1
まどマギを全話見た上での感想
http://d.hatena.ne.jp/str017/20110426/p1