ヨルムンガンドにおける武器の怖さと、ヨナから見たココという存在の不思議

ここんとこ疲れ気味でエントリ書けない状態が続いてたんですが、トルネに貯めてたヨルムンガンド 1〜4話を見て、これは久々の衝撃作だと思ったので、どう凄かったのか探っていきたいと思ってエントリを書いてみました。

1.ヨルムンガンド1〜4話を見てまず思った事
2.武器は、それを扱う人達を変貌させる怖さを持つ
3.ヨナから見たココという「感情移入させない」存在が、視聴者を客観へと導く


ヨルムンガンド1〜4話を見てまず思った事

ヨルムンガンドは丁寧だけど静かな感じがする。具体的に言えば最初はバックボーンを説明しすぎず「状況」に放り込み、全体像を視聴者に手探りで把握させ、変に感情移入「させず」に客観的に捉えさせている感じがします。しかもこの作品って、題材として武器商人と戦争を扱ってるのに妙にエグくなくアッサリ見られるんですよね。

構造としては、武器と、それを扱う人達と、ココ率いる武器商人達の三重の構造になってるように見えました。まず武器とそれを扱う人達に関しては、扱い方も丁寧で、Fate/Zeroのそれも特に切嗣の過去編が「あえて踏み込まなかった」武器についての怖い側面をじわじわと描いてる感じがします。


武器は、それを扱う人達を変貌させる怖さを持つ

Fate/Zeroにおいては、まず武器を扱う人達を中心にして、武器は人を殺し平和を勝ち取る為の「手段」として描かれてる感じがします。一方ヨルムンガンドでは、武器自体に「人を変貌させる怖さ」を付加しており、普通の女子高生だったチナツを殺戮を繰り返すような殺し屋に豹変させるような「人を変貌させる怖さ」を描いています。もしチナツがあそこで発砲せずに死んだふりでもし続けていれば、彼女の運命も変わったのかも知れません。武器ひとつで、平和な日常の象徴である女子高生を、殺戮の日常の象徴へと変化させてしまうという、怖さ。

そのようにヨルムンガンドは、殺戮の日常と武器商人或いは人間の汚さやエグさを描いていて、否応もなくその描写を叩き付けてくるのですが、しかし最初にも書いた通り「妙にエグくなくアッサリ見られる」という不思議な感じがこのヨルムンガンドにはします。では、何故か?


ヨナから見たココという「感情移入させない」存在が、視聴者を客観へと導く

私の推測ではココやヨナという存在が「そこから一歩引いて観測している」ので、視聴者も否応なく一歩引いて見られる……けいおんでいう「観客席から追い出されるという」現象が、ヨヨやヨナを経ることに置いて、あえて恐ろしさから疎外されている、そんな感じがします。けいおんに関しては杉田悠さんのエントリの『「おい俺の席がねーよ」。』箇所をみれば、私の言いたいことが大体分かると思います。

あなたが観客席から追い出されるということ――けいおん!!第20話「またまた学園祭!」で感じた断絶について。 - ばべのれ http://d.hatena.ne.jp/seiunn3032/20100831/1283265056

もちろんヨルムンガンドけいおんと構造がまったく違うのですが、ココやヨナという存在、特にヨナからみたココがその目の前で起っている出来事から一歩引いて、かつ本当に武器商人が「世界平和」を実現するような端から見れば狂気的な考えを持っているのではないか? という、ある種の「不気味感」があります。

これを受け、視聴者は目の前で起っている出来事に着目するのではなく、むしろココの「不気味感」に「ココは一体何を考えているのか?」と、常にココありきで状況を見ることになります。そう言う意味ではヨルムンガンドはある意味『戦う司書』的であり、またココは『ハミュッツ=メセタ』的な人物でもあるように思えます。


ということで、ヨルムンガンド戦う司書が面白いと思った方や、ツイッターでいうハミュッツクラスタにもオススメできますよ、という事です。演出もやたら凝っててやたら細かいところまで凝ってますしね!