「かわいいは正義」という思考停止

かわいいは正義」という言葉をご存知だろうか? この言葉は苺ましまろという漫画の帯に書かれていたキャッチコピーである。この「かわいいは正義」というキャッチコピーは、苺ましまろだけに留まらず、様々な人たちによって使われている。そして、そして今では「かわいいは正義」自体が一人歩きをし、言わばヒロインを無制限で肯定する半ば賛美の言葉として使われている感じがする。


しかし私は思う、果たして「かわいいは正義」という言葉だけで思考停止して良いものか?


例えば、前にもあげた「主人公が鈍感」問題でもその傾向があるのだけど、ヒロインの価値を上げるためにあえて主人公や男キャラの魅力が相対的に下げられている傾向があったり、ヒロインの暴挙や暴力が無条件で肯定されて描かれているような気がする。具体的には「超電磁砲」における不満点もこれに含まれているのだけど、まあそれは置いておこう。


一見物語を面白くする為、あるいはヒロインを魅力的に見せる為の措置だと思えるこの現象。正直な話「ヒロインを魅力的にする」という意味では悪いとは思わない。しかし、ここで無自覚にしろそうでないにしろ、果たしてこの問題を無批判ですんなり受け止めてしまってよいのだろうか? またヒロインの暴挙に対しても無自覚(無意識)な態度、或いは「かわいいは正義」という理論を振りかざして思考停止をしてはいないだろうか?


これらの態度は一見すると、ただかわいいヒロインを愛でている、あるいはヒロインに対して萌えているだけの態度に見える。しかしこの心理の奥底で無自覚の内に(無意識に)差別的な考え方を肯定してしまっている、そう見えるのは気のせいだろうか?


だが、差別的な考えどうこう以前に「フィクション」という大前提や「フィクション内での出来事」という前提があるので、本来はここまで難しく考える必要のない問題なのかもしれない。しかしその内在する意識と「フィクション」はそう切り離せるモノなのだろうかという疑問が残る。フィクションで肯定するのが無自覚(無意識)なのと同じく、現実でも無自覚(無意識)の内に肯定してしまってはいないだろうか?