エンドレスエイト私見・その1 「作画統一主義と、その結実としてのエンドレスエイト」

今日色々今期の作品に関して書こうと思ったけど、色々難事があって時間が取れなかったので書きかけの記事をアップして、残りを複数回形式で後々書いていこうと思ったり。ああ、手抜きさ(酷 ちなみに後の予定は「エンドレスエイト以前と以後、その傾向」と「溜息に与えた影響」の計3回予定でアップ予定。しかし3回目はまだ溜息すら見れてないので、ポシャる予感がぷんぷんするんですが……(汗
 
↓ここから本題↓
 
作画統一主義、これは私の造語であるが、簡単に説明すると「キャラクターデザインからちょっとでも離れた作画が出てくる事が許せない」考え方である。それはちょっと前のグレンラガン4話事件を振り返ればある程度察しが付くだろう。
 
このような考え方が主流になったのは、「作画崩壊」だと騒がれたりとする背景として、1990年代末期から2000年代初頭の無茶なスケジュール製作による(極端な例としてヤシガニとかヴァラノワールとか)があったりし、そこから「作画崩壊」という考え方が確立されたモノだと推測できる。その証拠にWikipedeaにもその記述があるので引用してみる。

旧来はいわゆる「放送事故」あるいは制作の遅延などを原因とするアニメーション作品の品質低下として認識されていたが、同語のような明確な呼称は存在せず、個々の作品に於ける現象として認識されていた。しかしインターネットコミュニティなどで視聴者が情報交換し合うようになると、「ファンの視点」として元々の絵柄から逸脱した(いわゆる「崩れた」ないし「壊れた」)状態として、こういった呼称が使われるようになっていった。
 
作画崩壊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E7%94%BB%E5%B4%A9%E5%A3%8A

そして、その後の2003年の「フルメタル・パニック? ふもっふ」を始め、「AIR」(2005年)「フルメタル・パニック! The Second Raid」(2005年)に代表される「京アニ作画」と呼ばれる作品群の極めて整った作画群と、その頂点とも言える2006年度の「涼宮ハルヒの憂鬱」が、その考え方を強固にしていった事は自明だろう。実際にこの時期以後の他スタジオ作品も質が向上し、全体的に平均値が底上げされている感じがする。MUSASHIキスダムと例外作品はあるとはいえ、今では極めて珍しいレアパターンとなっていった。
 
そういう意味でエンドレスエイトは、上記のような「綺麗かつ違いが無ければ良い作画」という価値観を、ある意味で逆手に取り、スタッフ入れ替えながらも「綺麗かつ違いが無い作画」をふんだんに堪能させるという画期的な試みだと私は思ってる。