『ラブライブ!』高坂穂乃果は変わりはしない、ただ人間へ戻ってきたのだ

昨日のエントリで言ってた、穂乃果の話をしますね。


穂乃果は12話で取り乱し、深夜ぼーっとパソコンを眺めていたり、翌日にμ′sを辞めるみたいなことを言って、11話までの穂乃果とはまるで別人状態になってました。

これに関して「穂乃果はそんな奴じゃない!」という意見に対して、まっつねさんが何か反論みたいなのを書いてたので引用してみます。

しかし、これが人間。

これが人生。

前回まではそんなことなかった?

9話で絵里が言っていたはずだ。


「次々新しいものを取り入れて、毎日目まぐるしく変わっていく。」


昨日の延長線上の今日。今日と変わらない明日。

退屈な郊外を背景とする日常系アニメならそれでもいいだろう。

しかし、ラブライブは違う。


毎日目まぐるしく変わっていく都市を背景にするアニメだ。

いつ、交通事故が起こってもおかしくない。


ラブライブ12話〜渡邊哲哉の望む永遠part2 - まっつねのアニメとか作画とか
http://d.hatena.ne.jp/mattune/20130325/1364207886

確かに「次々新しいものを取り入れて、毎日目まぐるしく変わっていく。」確かにそうかもしれないし、ラブライブはそういう物語でもあると思います。しかし穂乃果という人間を表すのに最適解では無いんじゃないかなー? と思ってます。


ここでその「最適解」を表すのに相応しそうな言葉を挙げてみます。

「人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」

そう、この言葉は坂口安吾の『堕落論』からの引用です。

堕落論
堕落論
posted with amazlet at 13.03.26
(2012-09-13)
※引用はこの青空文庫の『堕落論』から行いました。


高坂穂乃果も人間だから堕落する。穂乃果は風邪とことりの留学で変わった訳ではない、ただ人間へ戻ってきたのだ。


人間だから挫折することもあるでしょう。展開的には挫折させずにそのままラブライブに出場させるのも悪くはないとは思います。けど、その場合最後まで穂乃果自体にスポットが当たらず、砕けた言い方をするならば穂乃果の登板回が存在せずに「穂乃果? よう分からん」って状態になったかもしれないんですね。


沈むことのない天然キャラに問題解決を丸投げして「私たちは彼女に導かれたのです」といった物語になっても、穂乃果の登板回が無い意外には一応問題は何もないのだけど、ラブライブという作品はそうはしませんでした。つまりラブライブ高坂穂乃果を物語の都合上存在する「よく分からない何か」というキャラクターとして描くのではなく、笑うこともあれば怒ることもあり、悲しむこともあれば楽しむこともある、そういうような人間として描いたのです。



だが以下のように言いたい人もいるでしょう。

「本当の穂乃果ちゃんはこんなんじゃない!」

で?

「穂乃果ちゃんはそんなこと言わない!」

で?

穂乃果が負の一面を見せて何が悪いのですか? 穂乃果がラブライブに出れず悲しんだり、ことりが相談しなかったことに怒ったり、目的を見失って意気消沈することの何か悪いのですか?

本当にラブライブ! や穂乃果が好きなら、その作品の、彼女の、汚い部分ですら好きになれないなら、本当にラブライブ!高坂穂乃果を好きだとは言えませんよね? ラブライブ! という作品に対して無責任に接してませんか? と言いたい、激しく言いたい。



だがしかし、これは飽くまで理想論でありまして、現実はといえば人間そこまで割り切れるものでも無い訳で、これはまさにジレンマ状態ではあります。



でもね、でもね、正直な話すると、この12話の穂乃果よりも、矢澤にこちゃん先輩の方がずーーーーーっと扱い悪いと思うの。

だって、劇中*1でこんな顔してたんだぜ?

穂乃果はそのときの感情に揺られて酷い表情見せたけど、矢澤にこちゃん先輩はデフォでこんな顔するんだぜ? ひどくね? ひどくね? いくらなんでもあんまりですよね!!

*1:確か6話