セイクリッドセブンを見終えて − 総評まがいの羅列

セイクリのラスボスは「概念」に近いのかもしれない。罪を憎んで人を憎まずみたいな。

まあ言ってしまえば、セイクリのラスボスは研美さん→暴走フェイなんだけど、その本質は「悪しき意志」なのよね。その証拠に、研美さんが暴走モードに入ったとき、フェイ兄との記憶が意識の中に混同してたシーンがそれ。明らかその憎しみは石を通して伝わってる。


そもそも石に魂がやどるみたいな考え方は、本編のアステカ文明がどうこうを引用するまでもなく、日本でいう「八百万の神々」信仰的な「古く大切にされてきたモノには神が宿る」という考え方から来ているんだと思う。その証拠が「鬼瓦」の存在。*1で、面白いのが石から発する力に置いて「良石」と「悪石」という分かり易い対比をしいたのだけど、実は単純に二つの石が存在するだけではなく、その性質が、石の持ち主のあり方や気の持ち方によって、まったく様変わりしてしまう。一部で石=意志と開始当初から言われていたが、これは額面通り受け取っても良いと思う。


研美さんは良石悪石の区別をつけずに、単純に「純度を高めれば神になれる」と思っていたのだろう。その結果石の純度を色んな実験と、最終回時のように色んな力を吸収することによって、神になろうとした。*2しかしながら、そこには誤算があった。セイクリッドアルマが強くなりすぎたこともそうなんだけど、石自体が(元の持ち主である誰かから)フェイの兄貴へと経て研美さんに吸収されることによって、更に憎しみが増した。そこには純粋な「憎しみの意志」しか存在せず、己の自我を維持できなかったこと。


そういう意味では、最後の方まで研美に憎しみを持ちつつも、フェイへの親しみを持って戦ってきたナイトが、最後の最後に憎しみの象徴を壊すシーンは見事だった。セイクリッドアルマだけでは分かりづらい「悪石から良石への転化」をフォローしたり、作中での悪のイメージを一身に受けてた人間が憎しみを潰すカタルシスがあった


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ただ、若干不満でもないが、困った部分が二点だけ残った。ひとつは綺麗に終わりすぎたこと。もうひとつは序盤言ってたルリの「両親の敵の為に悪石を根絶やしにする」決意とその迷いが、研美さんの「それも私だ」騒動で有耶無耶になってしまったことの二点。


まず綺麗に終わりすぎたのは、これまで見てきたアニメの中でトップクラスでの綺麗な終わり方だと思う。(他には蒼穹のファフナーやらゾイドジェネシスやらがあったりする) しかしながら、そこから続編を作る際にはとてつもなく大変だということは、これまでの「続編モノ」を見れば明らかだろう。ただ「劇場版蒼穹のファフナー」みたいな成功例もあるので、一概には何とも言えない。一応風呂敷をたためる際に風呂敷の幅をどんどん狭める方式(言わば、世界規模の話から、身近な人間関係にの規模に収まってしまう辺りの手法)を取ったから、実はやれないこともない。


また、これは「整った作品」か「カオスな作品」かのどっちが好きかによって異なるんだろうけど、風呂敷を狭める段階でどうしても「だんだん規模がしょぼくなってる」と感じた人は当然いるだろう。もっと俗っぽい言い方をすれば「アンチは少ないが、熱烈的に応援する人も少ない」印象の作品。あと、終わり方をもうちょっと含んだやり方にしないと視聴者を引きつけられない、とか、もうちょっとごちゃごちゃにとっちらかった作品にした方が良かった、とかあるけど、その辺セイクリ自体「整った作品」の最たるモノだからなー、というか00みたいに後半カオスになりそうで続編は無い方が…



では次に、序盤言ってたルリの「両親の敵の為に悪石を根絶やしにする」決意とその迷いが、研美さんの「それも私だ」騒動で有耶無耶になってしまったことに関しては、描写されてないと言いたいのではなく、ただ単純に「分かりづらい」のでは? と思うだけなのだけど。


そもそもアルマや鬼瓦みたいに悪石の力を持つ人達に囲まれて生活してるのに、その決意に鈍りが出ない方がおかしい。じゃあ研美さんが「私が全部やりました」と言って、じゃあ研美を憎むのかといえばルリの心情から言えばそれは考えづらい。その辺、OP→EDになった「stone cold」の歌詞を読めば、凄い分かり易いかもしれない。「夢一つ守れるのなら、砕け散る意味もあるだろう」はまんまルリの信念だと思う。

*1:これは偶然かもしれない……という前置きを置いて説明すると、古来から大切に保存されていた事で何だかの神が宿ってもおかしくはない。

*2:そういう意味では己の探求心しか優先しなかった研美さんはらしいといえばらしいが。