「愛を無価値とする神漏教団、お前達は人間じゃない!」という思考停止

「愛を無価値とする神漏教団、お前達は人間じゃない!」という言葉をご存知だろうか? この言葉は戦う司書という作品にてヴォルケン=マクマーニが言っていた言葉である。この「お前達は人間じゃない」という言葉は、神漏教団員にだけ向けられており、作中内で奴隷とほぼ同義語の肉と呼ばれる人達に対しては「彼らは肉じゃない、人間だ!」と言っていたりする。


しかし私は思う、果たして「愛を無価値とする神漏教団、お前達は人間じゃない!」という言葉だけで思考停止して良いものか?


例えば、前にもあげた「ヴォルケンが鈍感」問題*1でもその傾向があるのだけど、ヴォルケンをまともに見せるためにあえて神溺教団の人達やハミュッツが相対的に変態になってる傾向があったり、ヴォルケンの暴挙や暴力がや無条件で(ヴォルケンの中で)肯定されているような気がする。具体的には長い間ヴォルケンが不在になるという不満点もこれに含まれているのだけど、まあそれは置いておこう。


一見物語を面白くする為、あるいはヴォルケンを魅力的に見せる為の措置だと思えるこの現象。正直な話「ヴォルケンを魅力的に見せる」という意味では悪いとは思わない。しかし、ここで(ヴォルケンが)無自覚にしろそうでないにしろ、果たしてこの問題を(ヴォルケンが)無批判にすんなり受け止めてしまってよいのだろうか? またヴォルケンの暴挙に対しても無自覚(無意識)な態度、或いは「愛を無価値とする神漏教団、お前達は人間じゃない!」という理論を振りかざして(ヴォルケンが)思考停止をしてはいないだろうか?


これらの態度は一見すると、ただ純粋まっすぐなヴォルケンが己の正義を行使しているだけにみえる。しかし、無自覚の内に神溺教団員も人間という事を忘れ否定し、同時に肉を人間だと肯定した考え方と矛盾してしまっている、そう見えるのは気のせいだろうか?


だが、矛盾的な考えどうこう以前に「武装司書」という肩書きや、ハミュッツ曰くの「ヴォルケン=マクマーニはお子様」という前提があるので、本来はここまで難しく考える必要のない問題なのかもしれない。しかしその内在する意識と「武装司書」という肩書きはそう簡単に切り離せるモノなのだろうか、という疑問が残る。己の正義における矛盾に無自覚(無意識)なのと同じく「ヴォルケン=マクマーニはお子様」ということを肯定してしまってはいないだろうか?



※この記事は過去に書いた
かわいいは正義」という思考停止 http://d.hatena.ne.jp/str017/20091226/p1
を改変したネタ記事です。

*1:挙げてない