ふと

以下のブラスレの批評記事を読んでいて思った

話すことが、逆に、お互いの無理解を深めてしまうという状況もあることだろう。暴力を避けるために十全なコミュニケーションを目指すべきだ、というふうに安易に結論を出すことはできない。コミュニケーションを強いることそれ自体が暴力となることも時にはあるだろう。
 
暴力とコミュニケーション――アニメ『ブラスレイター』について - metamorphosis
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20080623#1214235881

ヘルマンとアマンダの役割が逆なら
案外上手くいってたんじゃないかみたいな事を
ヘルマンとアマンダは属性的にも間逆に見える
行動こそ似たもの同士に見えるが、それに至るまでの
アプローチ方法がまったく間逆だった
端的にいえば「感情」と「理論」、「行動」と「考察」
ヘルマンが動をアマンダは静を表しているように思える
 
と、なるとゲルトが欲求してた(ように見える)のが静
マスコミに騒がれたり、マレクが「握手してください」
みたいなある種の動的な要素が負担を与えていて
(もっともトリガーになったのは別の問題だけど)
逆に、マレクは戦える力があれば戦いたいような動を
欲求していたように見える
 
と、ここまで書いておいて何ですが
何が言いたくなったか分からなくなってしまった(汗