螺旋状思考の独り言

右脳で思いついたモノを左脳でアウトプットするんだから
支離滅裂になるのは仕方がないこと、と言ってみる
お話を形成する際には、大局的な物語というのがこれまで重要視されてきた傾向があるが、現在のアニメを見ると縮小及び最適化されてきた感があるような  これは現在のアニメが1クールという厳しい環境の中でお話を作らなければならないので、最適化されたモノガタリに変化していったのは当然の帰結であると私は思う  例えば涼宮某とかひだまり某とか、この流れは過去の全体主義から個人主義へと移行していった流れに似ていなくもない  そこで私が注目したいのは某ストレートで、このアニメは1クールという中で「最適化された大局的な物語」を形成しようとしていたように見える、少なくとも私の中では  するとここで他の物語を分析してみると最適化された物語の中では、キャラクター主義つまりは前にも挙げた「個人主義」という部分に目が行く  涼宮某でもひだまり某でも小さなモノガタリの積み重ねというものは存在するが、大局的な物語つまりは「全体主義」な部分は見当たらない  ここで涼宮某は大局的な部分もあるのではないか?という疑問にぶち当たるが、あのお話は結局は主人公に全て帰結してしまう事で「個人主義」を貫いている  ここで某ストレートに話を戻そう、某ストレートは前にも挙げた「最適化された大局的な物語」を目指そうとしていた、だが結局は歯車が上手くかみ合わなかった  何故なら「個人主義」と「全体主義」は相反するモノだからだ  結論から書いてしまったが、つまりはキャラクター主義と「学園のために何かをする」という全体主義的な指向が相反してしまった、ここにアンバランスさが生じた、私がちょっと前に書いた「7話以降はダメダヨ論」にも書いてあるが、結局は全体の為にキャラクターは削がれてしまった  ここで大切なのはキャラクターを大切に描きたいなら全てのモノガタリはキャラクターに帰結すべき、と私は最近から考えるようになった  そして、私はそういうシナリオを書きたい
 
と、東浩紀氏の某作品分析を見ながら思った