エンドレスエイト私見・その1(補足) 「冒険する作画、それとムント様とか」

今回は前回の記事 「エンドレスエイト私見・その1 「作画統一主義と、その結実としてのエンドレスエイト」 の補足です。書き忘れいて事もありますが、基本的にはエンドレスエイト私見から少し外れるので補足扱いです。この辺りの事柄に関しては私より余裕で詳しい人が沢山いらっしゃるはずなので、詳しい解説は作画関連の語句で検索すれば色々出てくると思います。なお前の記事とこの記事の文体が若干違うのは仕様です。

冒険する作画

前回述べた「作画統一主義」という考え方がありますが、その考え方というか流れにあえて逆らう作品もあります。思い至る例があるので以下に引用してみたいと思います。

これは飽くまで僕の見解ですが、あの第7話は「敢えてアクシデントを起こした」のです。なぜか。今のテレビアニメが、均質化しすぎ、エネルギーを失っているからに他なりません。
僕に言わせれば、第7話は心臓マッサージです。とにかく「生きろ、蘇れ」と。もう、手足を失ってもいい。どんな傷跡が残ろうが、スライドと漫符だけで「動かしました」なんて手抜きアニメよりはマシだろう。大火傷を負ってもいいから、かつてアニメが持っていた図太い生命力を取り返せ!そんな制作者の叫びが聞こえたような気がしましたね。
 
550 miles to the Future: ■それでもテレビアニメは成立する■
http://mega80s.txt-nifty.com/meganikki/2009/03/post-f1fc-1.html

このほかにもグレンラガン4話騒動、アクエリオン19話など、明らかにそのメインスタッフの個性が強調される回があったりします。実際問題昔の作品はこの傾向が強かったような気が致します。と、いうよりも元々キャラデザに合わせるという考え方が2000年代から始まったからとも言えます。
 
ここからは直感で書きますが、恐らくはどちらが正しいかという問いはナンセンスだと思います。そもそもアニメ自体が集団作業である為、キーになるスタッフの方はおられるのでしょうが、結局は数ある方法論の一部に過ぎない、とは思います。*1

ムント様、それとハルヒ06と09の違い

そしてここで気になるのが、京都アニメーションの場合は終始一貫して作画統一主義なのか? これの答えは、前回の私見をひっくり返すかのような答えではあるんだけど、作画統一主義なのかと問われれば実はそうではなかったり。
 
まずはムント様の場合、最初と最後で作画が違うという現象が起こっていたりします。最もムント様自体が路線的に涼宮ハルヒの憂鬱とはあまり関係が無いんですが、それでも今まで繊細なまでに作画統一主義に拘ってきた京アニにしては珍しい現象ではあります。
 
では作画統一主義の筆頭に挙げた「涼宮ハルヒの憂鬱」ではどうなのか? と問われると……以下URLを参照で。

今日もやられやく ハルヒ溜息Ⅰが放送されたが、またも顔が『けいおん!』っぽい?
http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-3650.html

このように、09年のハルヒけいおん顔と呼ばれているのに対し、06年のハルヒがヒラメ顔と呼ばれています。やはりというか何というか、06年のハルヒと09年のハルヒとでは作画の統一がされていません。ここで思うのは、06ハルヒと09ハルヒの作画が違うのは良いんですけど、時々突出してけいおんっぽくなるのはわざとなのでしょうか、それとも……

*1:しかし、上記の記事で問題にされているのは「勢い」が足りない、という意味合いだという事は理解はしております