CANAAN 第5話

ユンユンとマリアは鍋を囲む。鍋を囲む行為は仲間、或いは友達の暗喩でもあると言える。だがこの時点では、マリアは友達になりたい(「カナンとあなたを知りたい」)と思っているのに対し、ユンユンは好奇の対象(「世界、ふしぎ発見」)にしか見ていなかった。
 
マリアはカナンも探したいがこの場所も離れたくない、それは深読みすればカナンとユンユンを天秤にかけられないという意思の表れだとも解釈できる。そんなマリアにユンユンは鍵を託す。だがこの時点ではお守りとお近づきの意志表明でしかない。何故なら船は開かれており、基本的に来る者は拒まないから。
 
このある種の大胆さは、ユンユンの性格の一片だろう。だが別の視点から、つまりはリャン・チー側の位置から見ればユンユンは何も無い存在。つまりこの開かれている明るさは、逆に捨てるモノが何も無い儚なさとの二面性を持っている。
 
そんな何も無いユンユンはカナンと偶然? 遭遇し、逆に返り討ちに遭うがマリアに助けられる。マリアからすれば二人とも友達だから、ユンユンが死んだら本当に友達を失うことになるし、またカナンも戻って来れなくなることになる為、身を挺してでも止めなければならない、今度は痛みだけでは済まされない。マリアの選択は結果的に3人とも救うことになったのだ。
 
マリアとカナンから見れば、共感覚者が引き起こした亀裂は、また共感覚者によって救われた。ユンユンはマリアとカナン、合わせて2回救われた。ここに三者三様の友達が結実した。タイトルの「灯ダチ」はまさしくそれを指しているのだろう。「友達っすね…」ユンユンから発せられた言葉が全てを物語ってる、本来はここまで語らずともこの一言で伝わるから、ここまで書いたのはちょっと無粋だったかもしれない。
 
友達を守る為に、ユンユンは無言の決意をして船を閉じて、軽やかに歩き出す。ここで鍵の意味は変わった。その船を開けられるのは今ではマリアだけである。
 
しかしホント、岡村天斎氏の回は凄いな……二十面相でもかんなぎでもRDでも魅せる映像を描いて、DTBでもスタイリッシュながらも悲哀に満ちた映像を描いてました、以下引用で

硬質な世界観を使って、この手の悲話をやらせたら岡村天斎さんの右に出る者は居ないんじゃないかと思う。DTBチックというか。安藤真裕監督のよく使う漫符的表情もユンユンに巧くマッチさせていたし、相変わらず好きな演出を散りばめてくれる方だ。『CANAAN』の最後まで演出なりコンテなりで関わってくれると嬉しい。
 
CANAAN ユンユンの悲劇性はカタルシスを生むか - subculic
http://d.hatena.ne.jp/tatsu2/20090804/1249325017

何でかは知らないけど、岡村天斎氏って「散り際の美しさ」みたいなのを書くのが上手い感じがします。ただ散るのではなく、一方では咲かす事も忘れない辺りが更に。